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2020.05.02

明治期の伝染病予防対策のパイオニアたち

  • 災害(災い)への対処の仕方
  • 対象とする災害(災い)
  • 避ける
  • 抑える
  • 疫病

明治期の伝染病予防対策

 幕末の開国以来、わが国は外国からもたらされる様々な伝染病に悩まされることになりますが、とくにコレラ・チフス・種痘など多数の死者を伴う疫病対策は喫緊の課題でした。

 今回は、明治期の伝染病予防対策をリードしたパイオニアとして、医師であり、またこの時期の衛生行政のトップでもあった長輿專齋(ながよ・せんさい)と後藤新平の二人の人物に光を当ててみたいと思います。

旧内務省初代衛生局長 長輿專齋

 近代日本初のパンデミックとなった1879(明治12)年のコレラ大流行の年を基軸にとると、長輿專齋は41歳、旧内務省初代衛生局長の職にありました。そもそも「衛生」という訳語を創出したのは彼であり、伝染病予防規則などの法整備、現場での対応方法の確立など、衛生行政の中心人物として活躍、その後も長く影響を及ぼし続けました。

日清戦争の検疫事業 後藤新平

 後藤新平はこの年22歳、愛知病院・愛知医学校(現名古屋大学医学部)に在職する若手医師でしたが、当時からその実力は高く評価されており、2年後に医学校長兼病院長となり、その翌年軍医であった石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)の紹介、長輿の引き立てにより旧内務省衛生局に採用、さらに13年後の1892(明治25)年には、長輿の実質的な後継者として第3代衛生局長に就任しています。

 しかし、その後後藤が陸奥中村藩主であった相馬家のお家騒動に連座して失脚すると、長輿はこれを見捨てました。一方石黒はこれを見捨てず、日清戦争の検疫事業を担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に提案、検疫事業の成果により後藤は衛生局長に復職しました。児玉に認められたことが、台湾総督となった児玉のもとで総督府民政局長に起用される契機となっています。

 1895(明治28)年に実施された日清戦争の検疫事業は、コレラ・チフスが蔓延する大陸からの帰還兵をわずか3カ月余で検疫した水際作戦で、広島沖の似島(にのしま)、下関近海の彦島(ひこしま)、大阪近郊の桜島の3か所に、消毒棟など計400棟余の施設を整備、これらの検疫を通過した帰還兵は23万人余、検疫船舶数700隻弱にのぼったといわれています。

後藤新平